昭和45年11月01日 朝の御理解
御理解 第1節
「今、天地の開ける音を聞いて、眼をさませ。」
今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませと。金光様の御信心を頂きたいと、願うという事。ご信心を頂きたいと願う、それは、今天地の開ける音を聞いて、目を覚まさせて頂こうという事だと思うんです。ですから、言うならば、お道の信心の焦点とも言うところだとも思いますね。今、天地の開ける音を聞いて、目をさまさせ。天地の開ける音を聞いて目が覚めたらどういうことになるだろうかと。
昔の昔話に桃太郎さんのお話がありますよね。昔々ある所にお爺さんとお婆さんが住んでおりましたという話です。お爺さんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に。お婆さんが川で洗濯をしておりますと、川上から大きな桃が流れてきた。ポッカリポッカリ流れて来るから、その桃を拾うて家に帰る。お爺さんと喜んでその桃を切ると中から、桃太郎さんが生まれてきたと、こう言うのです。
お婆さんにはお婆さんの言わば道があり、お爺さんにはおじいさんの道がある。それを全うしていくという事。その人、人に与えられた場というものを実意丁寧に守っていくという事。おじいさんが川に洗濯に行こうとしたり、又はお婆さんが山に芝刈りに行こうとしたり、そういう間違った事を思うたり、又は行うたりしておっては、いつまで経っても本当な事は分からない。それぞれのひとつの本分というものがある。それを私共が教えに忠実にならして頂いて、そこのところが分かっていかなければいけん。
言うなら、話を聞いたから、翻然として心が開けると。分かったというのでは、天地が開けた音を聞く事にはならないのであって、教えを頂いて、その教えを守るという事。その教えを行じていくというそこから、天地の開ける音を聞く事が出来ると思うのです。天地の開ける音を聞かせて頂いたら、そこから言うならお道の信心が分かる。第一天地の心が分かる。いわゆる天地の、天地に道ありというその道が分かる。その道を歩いていくところから、本当な事が目につき、本当な事が聞こえてくるようになる。
今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ますという事は、只信心をしておるから、お話を頂いておるから、理屈の上で天地の道理が分かったからというだけでは、目を開いた事にはならない。信心のいわゆる目指しであるという事。ね、例えて申しますと、今月の信心の焦点が「一心の真を捧げての願いになろう」と。昨夜の御理解の中にも頂きましたように、ね、先月は、天赦願と、ね、神様に許されての願いと、いう事であった。ところが、私共がひと月締めくくってみて。
なるほど十月という月はま、おかげ月と昔から言われてあるように、いろんなおかげの第一、ここからも沢山な人が御本部参拝をさせて頂いたり、帰ってからは又ここの教祖大祭を頂いたり、様々な事が本当に大きなおかげ頂いて参りました。けれども果たして一心の真を捧げて願ったから、おかげを頂いたのであろうかと。そうではない一心の真も捧げずに願ってもいないのに、おかげを頂いたというのが一番本当であろう。してみると先月の神様に、言わば心を開いて皆の願いを待ってござったのに、こちらはその願いに、神様の願いに応えての願いになっていなかつたという事を、ま感じさせて頂いた。
ね、そこで今月も、また、それに重ねて、ね、一心の真を捧げて願う、捧げての願いになろうという、今月の焦点といったようなところがま、打ち出された訳である。私共は、思わせて頂くのに、一心の真を捧げての願いになろうという事がですね、ならどういうような事が一心の真を捧げる事になるのか、願う事になるのかと。そこから翻然として、天地の開ける音を聞く事が出来るだろうという気がする。
先月はま残念ながらおかげを頂いてきたけれども、天赦願と言われるその願いに応えての言わば願いにならなかった。ね、何とはなしにまだ眠たい眠たいといったような目がさめるというところまでになっていなかった。今月は本気で一心の真を捧げての願いというのを、ね、先ほど申しましたそれぞれの立場、誰と彼とが同しという事ではない。それぞれの持ち場に於いて一心の真を捧げての願いにならせて頂こうと。
昨日は、少年少女会によるブラスバンドの練習の第一日目を昨日、迎えた訳で、先生が見えましてからお話を聞いたり、まいろいろ説明楽器の説明を受けた程度のことじゃなかったろうかと私は思いますけれども、その報告の御祈念をさせて頂いきましてから、その後に頂きました御理解でございましたが。銘々の例えば受け持たされたところの楽器を、ま、勉強する訳ですね。それを言わば稽古をする訳です。
まそれぞれにその事を一生懸命稽古すると。その一生懸命にその事に取り組んで稽古をするという事が、ね、そのままいうならば、真を捧げての願いに通ずるという意味の事を頂きました。例えば皆さんが、一生懸命にその事に打ち込んで稽古をさせて頂く。ま、吹くもの、良い音色を目指しての稽古であります。ね、それが、世界真の平和とか、ね、又は、世のお役に立たせて下さいという、そういう祈りをお互いが持っておる。その祈りの実現、ね、その祈りがそのような風にして表れていくと。
これから合楽がいよいよ真の信心を目指して、ま、言わば打って一丸となっての一大行進があるだろうと。その一大行進の先頭を承っていくと。そういう大変な御用につながる事だと。まあ例を申しますと、昨日リーダーであります光昭君が、ここでお届けをさせて、楽器の練習をさせて頂く事を通して、信心を分からせて下さいとこう。私共それぞれの例えば学生は、学生の本分があり、それぞれの持ち場、立場というのが有ります。だから、その事に一生懸命に取り組ませて頂いて。
そこから信心を分からせて下さい。今、天地の開ける音を聞いて眼をさますというのは、そういう中からしか私は開けてはこないと思う。ね、楽器の練習をする。その練習の中から信心を分からせて下さいとこういう。それから、井上由美子さんがお届けをしておりますのに、先日お夢を頂きましたと。会員の人達がいっぱいお広前で何か分らんけど、御用を一生懸命さして頂いておる。
その中に幹三郎君も一生懸命なんか御用頂いておる。ふと、その幹三郎君を見せて頂いたら、あんなにこう腫れておる腫れが無くなってしまっておる。「あら幹三郎君、腫れがへってしまっとるじゃないか」と言うて聞いたところが、幹三郎自身もそれが気がつかんでおった。「あら、腫れがへってる」という、そういうそのお夢であったとこう。いわゆるそれぞれのたあとえば御用を一生懸命に頂いておる。
例えば少年少女会の方達の今度のバンドに参加しておられる人達は、一生懸命に楽器の練習をしておる。一心の真を捧げての言わば、御用をさして頂いておる。その事がですね、例えば願いに通じておる。その事がもう願いになっておる。先日も話をいたしましたように、病院へ行って、始めての病院に行きで大変怖かった。怖かったけれども、出がけに頂いた御理解を思い出させて頂いたら心に安心が出来たと言っておる。
昨日、富永先生の所から電話が、か病院からかでしょうか。電話がかかってからあ病院からでしょう。富永先生のところのご依頼の、いわば入院の手続きやら、部屋やらのあれが済んだという意味の電話がかかって来たらしい。ですから四日からの入院になるらしい。言うならば、まあ怖い所へ向かって行く訳である。ね、けれどもです例えばこれは少年少女会の人達が一心に例えば、あの楽器の練習に励まれる。ね
、それは、丁度、ね、ひとつの例えば、怖いと思うておっても、そこからそのリズムというか、流れてくるそのリズムに乗って出発させて頂くところに、昔の例えば戦争なんかでは、ね、さあ敵の中に斬り込むという時には、陣太鼓を叩いたり、鐘を叩いたり、ほら貝を吹いて勇ましくその皆さんの志気を奮い立たせる役目を果たした。ね、今の戦争でもやはり同じ事が言える。ね、いわゆる進軍ラッパを吹いて。
その敵地にいうならば突入して行くと。ね、もうそこには怖いもなからなければ、その、おじけ付いとった、例えば心でもです、何とはなしにそれによって奮い立って、ね、進んで行けれるような役目をですね、果たす事が出来る。そういう意味でひとつ、本気でそれぞれの受持ち、ね、笛の人は笛、ラッパの人はラッパをです。一心に吹かなければ、稽古をさせてもらわなければならん。
笛を吹いたり、ラッパを吹いたり、という事では、そこに自らの道が生まれてこない。言うならば、おじいさんはおじいさんの道があり、おばあさんには、おばあさんの道がある。そこに、私は自ずと開けてくるものがある。それを私は、今日は天地の開ける音を聞くという事は、そういう事から聞けるのだという風に思わしてもらいます。只一生懸命に参ったとか、拝んだというだけではいけない。
そこに自分の持ち場、立場というものをしっかりわきまえさせて頂いて、そこのところに私は一心の真を捧げての御用になり、願いを、その内容にある事である。少年少女会の方の中にも、幾人も例えば幹三郎君の事を願うておられる方達がある。お取次を頂いて、それを願っておられる。そういう願いが例えば、打って一丸となっての願いという事は、どうぞどうぞ神様病気を治してやって下さい、治して下さいという事だけではいけない。それで自分自身の心の中に開けてくるものが感じられない。
自分の頂いておる持ち場というものを本気で信心の御教に基づいて、いわゆるリーダーのお届けのように、そのバンドの練習の中から信心を分からせて下さいという願い。お百姓さんならお百姓さんを一生懸命、お百姓さんに打ち込みながらです、お百姓させて頂きながら、その中から本当の信心を分からせて下さいという願になって参りませんとです、翻然としたものになってこない。ね、
仕事が仕事を教えるという、ようにたとえば、たとえばそこからです、そこんところに焦点を置き、そこんところに打ち込んでおらなければ分からないもの。いわゆる翻然とした、言わば悟りになってこない。そこに天地のいわゆる神様の声を聞き、神の姿を見る事が出来る。実に微妙この上もない微妙な事である。言わば仕事が仕事を教えるという程しに微妙なものである。そこにだから打ち込まなければです、ああ又こげな今日はラッパを吹かにゃならん。笛を吹かにゃならんというのではない。
又今日畑の草を取らければならん。又肥料を施さにきゃならんのである、といったようなですね、ものではなくて、その中から信心を分からせて下さいという願い、それが私は、願い。願いになろうということは、そういう願いにならなければならない。しかも、そこに一心の真を捧げてのものでなからなければならない。今日私、一心の真という事を、ね、そのような風に感じさせてもらい、願うという事もそのような願いにならなければならない。御用と信心とが一体、ね、しかもその働きが、ね。
どういう事になるかと言うと、不思議な事になってくる。言わば川上から桃が流れてくるというような。それを頂かせて頂くというような、その中から願いに願っておった桃太郎さんが誕生するといったようなおかげになってくる。 一心の真を捧げての願いになろうと。これを先月は、ね、自分の一番大事なものを捧げてというような意味に頂きました。その事もこれは、大変難しい事であるけれども、やはり。
そこんところのね、捧げられるいわばおかげを頂かなければならん。それを今日私は、一心のまた真を捧げて願うという事を、ね、一番密接な自分の持ち場、立場に於いてです、その中から信心を分からせて頂こうという事を一心の真を捧げての願いにつながらせて頂いての事を申しました。そこから必ず、ね、いわば仕事が仕事を教える。その稽古が、ね、思いもかけない境地が開けてくる。ね。
それがいやいやながらだとか、または、又、今日もこんな仕事しなければならない、といったような中からは生まれてはこない。どうぞ、この仕事の中から、この御用の中から信心を分からせて下さいという願い、そういう願いにならせて頂くならばです、そこからね、これは未知数のもの。分らない。どういう事が分かるか分からんけれども、そこに翻然とした、いわば楽器で言うならば、よい音色と言うか、がそこから生まれてくるおかげになるだろう。
桃太郎さんの誕生になるだろう。又は、新たな仕事の、から生まれてくる、今までかって知らなかった味わったこともなかった、味わったこともなかった信心の喜びも開けてくるだろう。それを今日私は、天地の開ける音を聞いて、目を覚ます事だと。楽器の事からね、良い音色が出てくる時にです、それこそ、そこには眠さもきつさも忘れる程しのま、妙境といったようなものが生まれてくる。
そういうところをです、私は天地の開ける音を聞いて、目を覚ますということはそういうことではなかろうかと。一心の真を捧げての願いになろうという、たとえば御教の周辺に、ね、目を覚まさせて頂くひとつの資料と言うかね、目を覚まさせて頂く元が隠されてある。それに、触れる事の為には、私共が一心の真を捧げて、その持ち場、立場をいよいよまっとうしていこうとする精進。その中から真の信心を分からせて頂こうとする願い、ね、がなからなければならないという事を申しましたですね。
どうぞ。